能登半島地震発生12日目、被災地支援について思う
2024/01/12
ブログを書くのは半年ぶり(前回は2023年6月12日)となる(今回は、「で、ある」調である)。書く気になったのは、1月1日の地震発生以降、ザワザワ感が続いているからだと思う。
結婚以降(40年近く前から)、年越しは私の実家である岡山県倉敷市で過ごすことにしてきたが、7年前に父が、そして一昨年に母が亡くなり、家は残してあるもののお墓も昨年12月に京都に改葬したこともあって、正月に戻る意味がなくなったため、昨年から京都で過ごしている。退屈すぎるので、3日か4日には事務所に出ているのだが。
配偶者(妻)の実家は、今回の地震の震源、石川県珠洲市。どう地図を見ても、震源の上に家が建っている(いた)ため、見事に倒壊。珠洲市の被害の実情はまだ陸路が通じていないなどの理由から不明のままだが、珠洲市のある区長が取材に応じた際に「おそらく建っている家はないんじゃないか?」という主旨の言葉を発した。その通りなのだろう。行けない、つながらないから「わからない」ままのようである。配偶者の兄が一人家に住んでいたが、固定電話も携帯電話もつながらず、3日目に同じ避難所に身を寄せている人が違う通信事業者で、携帯電話を短時間お借りして親族に「避難所にいる、家は潰れた」旨を伝えて来たので、家の倒壊と安否の確認ができた。
本州の中でも奥能登と東北などは、一度大規模な自然災害が生じるとたちまちに、道路、電気、電波、水道などのライフライン難民が多数生じることを証明してしまった。私たちは、知ってしまったのだ。
同じ能登半島でも、朝市で有名な地域が火災で壊滅した輪島は、陸路も通じていたため、消防、自衛隊、行政、報道などが現地に入ることができ、リアルタイムでメディアで報じられてきた。火災はもちろんだが、家屋倒壊、道路などの地割れ、土砂崩れ、海岸の隆起も日々報じられ、今回の地震の凄まじさをディスプレイ画面から目にした。
輪島、七尾あたりまでは陸路が応急復旧され、メディアが日々最新の情報を流している。しかし、それ以北の地域は、自衛隊車両のみ通行化、もしくは自衛隊員が荷物を担いで歩いて被災地域に向かう姿が報じられた。一昨日あたりから珠洲市の東側(市役所のある側)に報道が入り、一部電気が復旧し、その惨状が画面で見られるように、被災者の声が聴こえるようになったばかりだが、市街地および近隣の避難所や学校に限られている。北西に、北東には、まだ連絡の取れない人々がおられると思われる。携帯電話基地局も発電機で電気を補っているため電波は弱く、燃料切れすれば電波が途絶える。
話しは戻る。結婚当時は旧国鉄から分割され、第三セクターとして存続していた「のと鉄道」(恋路駅などで有名)がまだ走っていて、終点の蛸島の二つ手前の珠洲まで鉄路で、駅からはご近所の方の車で小一時間かけて大谷峠を越え、大谷町に運んでもらっていた。2〜3年に一度は戻っていただろうか。バイクでツーリング気分で行ったこともある。義父が金沢大学病院で白内障手術を受けた時(当時は2週間以上の入院が必要で、アンティークな、だからこそ静けさと冷たさ漂う広い廊下の奥に、広い病室があった)もバイクで向かった。車を保有してから、その頃には今の「のと里山海道」が有料道路として開通していたので、車で戻っていたが、その遠さ(500km以上)に辟易しながら、奥能登の西海岸を走った。北ノ端である禄剛崎灯台にも、東海岸を南下して見附島(今回自身で一部が崩れた「軍艦島」)、恋路ヶ浜から和倉温泉へ…。近くの漁港で釣りもした。こどもたちを従姉妹たちと、岩の多い海へ連れて行って、足を傷だらけにした。あの海が、あの海岸線が、もう元に戻れない。
奥能登の地形、自然、そして人間の生活にとっての「限界」も体感してきた。この地震は、その「限界」を現実として突きつけた。
人間は、眼で見たもの、耳で聴いたもの、の順に脳が認識するとされる(最期まで残るのは聴覚らしい)。さらに別回路で「臭い」情報は記憶に焼き付くとされる。それらは本当のことのようだ。痛みは一定時間は脳神経が麻痺し、傷はある程度は治るが、記憶は消せない。
1995年1月17日、阪神淡路大震災の起きた。私がいた職場からは労働組合の分会として、1月28日に神戸市東灘区のある公園に炊き出しに入った。現地のボランティア拠点から、「まだ支援が入れていない避難所があり、そこへ向かって欲しい」と言われて。その通りだった。近隣の避難所から聞こえてくるボランティア救援を待っておられた。電気もガスも電話も水道も使えない。当時はまだ携帯電話はなく、関西セルラーを一部の人が持っていただけだった(恐ろしく重い無線機)。水は数キロ先の避難所である小学校へ汲みに行き、暖を取るための火は周囲の倒壊した家々から柱などの木材を取ってきて釘を抜き、適当な長さに切って薪にして燃やしていた。山﨑パンがいち早くパン、サンドウィッチ、後に弁当を届けてくれるようになったが、電気が通じるまで(電線が引かれるまで)電子レンジで温めることはできなかった。「主食はあるが、温かい汁物が欲しい」と言われ、その後汁物を作りに毎週末通った(4月末まで)。自衛隊が入り、一家に一つのテントを建て、大量のご飯を炊き、順にお風呂に入れるようになった。この公園に避難した人たちは、テントが建ち並んだ公園を「〇〇公園テント村」と呼び、自治会を作って様々な自主的な避難所生活を築いた。
私たちはこのテント村に、鉄道が通じていたので、JR芦屋駅から歩いて入れていた。当初、しばらくの間はガス管が破損していて、そのガス臭さが鼻に付いた。今も倒壊家屋などの記憶と共に思い出せる。
神戸は、山側に東西に走る山手幹線の南北で、揺れの大きさが明らかに違っていた。南=瀬戸内海側は倒壊家屋が多いが、北=山側は倒壊家屋はほとんどなかった(と記憶している)。被災エリアが広くなかったためだろうが、鉄路も、道路も、人や物資を運んだ。焼け、倒れた家々。消防など救急車両が通れる太い道路の整備の必用性がわかり、行政が再整備計画を作り、住民説明会が3月末頃から地域毎に開催されて行った。この公園でも開催され、中には入れないものの、大きなテント内で行われていたため、大声でのやり取りも聞こえた。狭い道路に面した土地を所有していた人は、土地の一部を拠出することになるわけだから、「はい、どうぞ」と言う人はいない。ふり返れば、しっかりとした計画方針と図面があり、丁寧で納得の行く説明があり、同意する住民が増えつつ、再建が進んで行ったのである。「いつまでもボランティアに頼っているのではなく、自分たちで再建していかなければ…という意見が多い」と、テント村は解散の方向となり、私たちの支援ボランティアは終結して行った。
2011年3月11日に発生した東日本大震災の後も、救援・支援に加わることは物理的に無理だったが、自身の眼で見、記憶に残したいとずっと思いつつ、チャンスがなく、今回の能登半島地震になってしまった。大川小学校だけには何としても行きたいと思っているが。
話しを戻そう。
このブログを書く気になったもう一つの理由がある。
れいわ新選組の山本太郎氏が、足のケガを押して能登半島に入り、炊き出しのカレーを食べたことでSNS上での非難が多数見受けられることへの違和感だ。彼は国会議員として、現地を見、被災者の話を聴き、1月末に開かれる国会で質問するために向かったのだろう。何もおかしくない。
「自衛隊や医療などの救援車両しか通らないように言われているのに…」という声がある。繰り返しになるが、彼は現職の参議院議員である。民間人ではない。国が今回の能登半島地震に対して何をどう対処するかを決める国会を構成する人だ。情報が少ない中、自治体・県から伝わってくる情報は、独特のフィルターを通っていることを、私たちは十分に知ってしまっている。さらに今回は、少ない情報すら、まだ「わからない」ことだらけの、1000年に一度と言われる大災害であり、文字通り急を要する。彼が現地に入ることに、何も問題を感じない。
「炊き出しのカレーは被災者が食べるために作られたものだから、それを食べるのはおかしい」という声が多数ある。一見もっともらしく聞こえるかもしれない。阪神淡路大震災の時にも同様の報道がされていた(当時はSNSなどはもちろんなかったが)。専門家やボランティア団体の一部の人が、「そもそもボランティアというのは…」と原則論のような持論を展開されていた。大規模な避難所においては、そうした原則論が正しいこともあるだろう。食料・水・トイレはないから自分で持っていくしかないし、食料などは被災者優先であることは当然である。しかし、規模の小さい避難所などでは、事情が違う。先に書いたテント村などでは、その場にいる時間は、食料・水・トイレは共有してくれ、と言われた。配られる弁当が余っていて処分するのは勿体ないからと、到着するとすぐに「温めて食べてくれ」と言われた。剰余食料の廃棄を減らすことも「支援」だった。支援する側もされる側も、同じ人間なのだから。そして、炊き出しなど、一緒に作ったものは、一緒に食べながら話し過ごす時間を共にしたい。新しいコミュニティがそこに作られていくのだから、そのコミュニティが大切にしたいものを共に見つけ創って行くことも重要な支援であるはず。「自衛隊はテントに隠れて缶詰を食べている」云々と、カレーを食べたことを非難する人たちには、自衛隊が派遣される目的・役割と、被災者の自主的支援との違いをわかって欲しい。もちろん自衛隊の身を挺した救援行動には感謝しかない。
空からヘリコプターで現地入りした医療NGOのピースウインズ・ジャパン”ARROWS"の医師が取材に応じ、「地域の人たちが、その名前(フルネーム)で認識し合っている」ことに驚くと共に、人命救助に役立つものだと話していた。都市部から失われている「人のつながり」が、高齢化率が高いとはいえ奥能登にはある。
今後さらにメディアが入り、被災の実態が明らかになるだろう。地形的にもライフライン難民が多数生じる地域で生じる災害に、何を準備し対応すべきか、どれだけの検証、議論、対応・事前準備策が創られるか、政治任せにしたくない。いや、できる状態にないことは明らかである。とりわけ今は、強くそう思う。
大切にしてきた生活、地域、育ち暮らしてきた自然や風景、そして大切な人の命。たくさんのものが消える。臭いと共に。そして、ありのままが記憶に残される。直接被災していないが、その臭いを感じたい。
能登半島支援のために今、個人的にできることは、被災者・被災地に思いを寄せること、現地で救援に当たってくれている方々への感謝、寄付・カンパと、陸路が復旧したあとにできることの準備…。
個人的には、石川県にではなく、現地の自治体に直接、財源として早く自由に使えるお金を届け、現地に入って活動してくれている団体を支援したい。
ちなみに珠洲市能登半島地震災害義援金、振込口座が開設されている。
北國銀行 珠洲支店 普通 28457 スズシノトハントウジジンサイガイギエンキン
「國」を間違えないように。
通学路の朝立ち(交差点横断の安全見守り)を9日から始めたのも、こうした想いからのようだ。