水着忘れ体操服で泳がせる?
2003/11/16
共同通信によると、体育の授業で水着を忘れたことに女性教諭(41)が怒り、1年生の生徒60人を体操服のまま泳がせるという事件が京都国分寺市の市立中学校で9月2日に発生しました。市教委によると、1年生3クラス計118人のうち75人が水着を忘れ、その教諭は、うち男女計60人を体操服のまま泳がせたそうです。保護者から「女子生徒の下着が透けて見えて恥ずかしそうだった」との苦情の手紙が校長あてに届き、事情を聴いたところ、この教諭は「水着を忘れた罰ではなく、水難事故防止のための『着衣水泳』だった」と説明したそうです。校長は教師に注意をしただけで、市教委には報告をしていませんでした。
この行為が子どもたちの命にかかわる危険なものであること、生涯忘れられない屈辱的なものであること(とりわけ女子生徒にとっては)、教師という立場を利用した強権的なものであることに気づけなかったのでしょうか?「罰ではなく、水難事故防止のための『着衣水泳』だった」等、その場しのぎの言い逃れであることは誰の耳にも明らかだと思います。事情を聞き事態を知った校長の認識の低さ、判断の甘さにも驚きます。「問題のない学校」であること、が大切だったのでしょうか。保護者が「おかしい!」と申し出ることがなかったら、この異常な事件は無かったものとして過ぎ去っていくのでしょう。でも、子どもたちの受けた心的外傷は一生ものです。誰が責任をもてるというのでしょう。
先週は生徒を逆さ吊りして道路を横断し「小学生なんかに負けるか」と押さえつけた教師、盗撮をしていた教師についての報道もありました。毎週のように全国どこかで、こうした教師による不祥事が発生していますが、その背景にあるものは、事件を起こした教師個人に帰するものだけなのでしょうか? 管理主義がはびこり、競争原理に犯され、子どもたちにゆとりをもって関わることができなくなった教師のみなさんが抱えた強度なストレスは「公務員だから…」という一般的感覚の中で見過ごされているのも実態です。このストレスが、はけ口を持たないまま継続し重度化していく中で、神経症や精神病(うつが多い)を発症する人が出てくるのは必然だと思います。学校におけるさまざまな事件・事故の背後にあるもの、それは学校をとりまく大人社会全体の歪みではないでしょうか。子どもたちにとって安心・安全で育ち学べる学校を再構築するためには、学校、家庭、地域ぐるみで子どもたちの環境を考えることが不可欠だと、これらの事件報道を聞くたびに思います。