「命の教育」について思う…。
2004/01/19
2004-01-19
私の伯母(父親の姉)が15日に肺炎で亡くなり、16日から実家に帰っていました。17日が通夜、18日が告別式でした。83歳での往生、ひ孫が3人、見送りました。生きて共に生活していた人が、突然に息をしなくなり、動かなくなり、儀式の後に骨になってしまい、もう存在しなくなるとという現実を、5歳~7歳のひ孫たちは経験しました。こうした経験は、核家族(親子家族)ではなかなかできませんが、「生」とともに「死」を現実のものとして受け止めることの大切さを、今、多くの方が痛感されておられるのではないでしょうか。
長男の死は、当時の中学校で、1・2年生は生徒指導部が作成した文書を各クラスで担任が読み上げて終わり。3年生はその文書を読み上げた後、1時間は「命の尊さについて」として授業が行われたそうです。長男のクラスでは1時間話しがされたそうですが、他のクラスでは普通の授業に切り替えたところもあったそうです。この文書が読みたいと、市の情報公開で請求したりしましたが、授業終了後に教頭が回収し処分したそうです。統一した文書を担任が読み上げて終わり…、生徒の感想は「何か読んでたけど、よう覚えとらん」というものでした。同じ学校の生徒が自殺し、その死A4で1枚のワープロ打ちを読み上げたのと、学校だよりの「…死亡されました。謹んで…」1行だけ。生徒たちで話し合うという取り組みはなかったそうです。今更ながら、この形式的で不十分な「命の教育」が残念でなりません。生徒たちは何を学び、何を考えることができたのでしょうか?
伯母の死顔を直視することも、末期の水をあげることも、柩を運ぶことも、冷静にできました。4年半という時間は私を、長男の死後に十分に行えなかった「悲哀」を乗り越え、死の「受容」に確実に向かわせているようです。