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        責任を自覚しなければ放置できる?
        2002/05/01
         昨日、「不登校自殺」の推薦人をお願いした京都教職員組合執行委員長・大平勲氏より激励と協力の手紙をいただきました。「今の教育の混迷と矛盾の泥沼に対するひとつの告発としてライフワークとしてとりくんでいただければと思います」――。京都教職員組合や地元の乙訓教職員組合とは、長男の自殺当初より、親は親として、学校関係者は学校関係者として何がしてあげられたのか、今後何ができるのかなど、一緒に取り組んできました。大平氏も先の府教委での「要望書」の取り扱いについて、「極めておざなりでほとんど議論がなかったと聞かされ、教育行政の機能しない壁の厚さを思い知らされました」と述べておられます。
         さて、私がまもなく読み終わろうとしている本の紹介。「学校崩壊――現場からの報告」河上亮一著・草思社刊。一部生徒たちの荒れからクラス・学年が崩壊していく中で、学年主任として赴任一年目の苦悩と苦闘がつづられています。「教育改革国民会議」第一分科会に現場教師として参加し、「奉仕」や「出席停止」などで話題となった人の著書です。これらの問題については学習不足であり、コメントするものを持ち得ていませんが、その中で、とても共感したところを三カ所紹介します。
        「考えてみれば、管理職は日常の担任や教師の苦しみなどわかるわけがないのだ。自分の責任を自覚しなければ、放っておくことができる。放っておいても、時間だけはたっていくのである」。
        「そのような学校の変化の中で登場したのが、管理職が直接、教師をコントロールするやり方である。企業の経営管理の考え方を導入したのだろうが、この学校はその最先端だったわけである。教頭が一人ひとりの教師と結びつき、教師はことあるごとに教頭に相談に行き、支持を求めるというシステムがこの学校を支配していた。学年主任は飾りもので、学年の共同性はほとんどなく、一人ひとりの教師が自分で責任を持つことになっていた。学年教師の自治が崩れれば、このようなシステムが登場するのはしかたなかっただろう」。
        「一人ひとりがばらばらに立ち向かおうとすれば、他人をかまっている余裕などない。耐えられない教師が出てくるのも自然のなりゆきである。いちばん弱い教師が破綻し、それが他の教師へも波及するのは時間の問題だ」。
         長男の通っていた当時の勝山中学校のそれと、極めて似ている。全国の中学校にこんな「システム」がはびこっているのだろうか?