2014年に書いた書評、『 登校拒否を生きる─「脱落」から「脱出」へ』。
2021/10/25
懐かしい投稿をFBが教えてくれました。もう7年前になります。
「京都民報」という地元の週間新聞に依頼されて書かせてもらった書評です。一段落が超長文過ぎますね(^-^*)。でも、言いたいことは今も同じ。不登校・登校拒否をめぐる状況は何も変わっていないどころか、ますます悪化の一途です。
『 登校拒否を生きる─「脱落」から「脱出」へ』
著・高垣忠一郎 新日本出版 1600円+税
「自己責任」「自立自助」を「ねばならない」と受容させられる心理社会的潮流の中で、登校拒否の子どもや家族の苦境は深刻な社会的課題であるのに、「個人の問題」として扱われ続けるさもしい日本社会。貧困・格差、病気や障害、高齢者介護なども同様のテーマである。
私の長男が「不登校」状態となった頃、学校に行かずとも学習に遅れが出ないようにと願う一方で、長男は「親に(経済的な)迷惑をかけたくない」と思い塾や家庭教師を拒み続けた。お金を気にせずに学ぶ機会が学校外にあればと、長男の死後にも考えていたこともある。さもしい「大人」であった。
2000年2月、中学3年だった長男は将来を悲嘆、無力、絶望感から自ら命を絶った。子どもの自死、登校拒否、学校教育の意味を問い、思春期・青年期の心性や関わり方を(遅ればせながら)学び、自身が対人援助者となるにあたって理解しやすい導きをいただき続けているのが高垣氏である。
人の育ち、その存在の意味において不可欠なものと高垣氏が提唱する「自己肯定感」。それを削ぐ「仕組み」としての競争と管理の「能力主義教育」の中で、「人の価値をテストの成績・点数で測る人間」が育てられ、結果が出なければ見捨てられるという「脅しによって駆り立てられる」行動習性を身につけてしまう社会と対峙しつつ、子どもや親たちの苦悩に、カウンセリングや家族会づくりなどを通して寄り添ってきた心理臨床家としての警告と自戒を求める「叫び」の書であるとともに、氏の「対人援助論」である。
人の価値を部分的に切り取って評価・区別し切り捨てる「競争社会」からその人丸ごとを理解し支え合う「共同社会」へと、一度「競争」に負けてレールを踏み外せば「脱落」する社会から一人ひとりがあるがままに承認され相互に構造的に協力を生む社会へと「脱却」するための主体性や態度が、大人、支援者、そして日本社会を構成する一人ひとりに求められている.。
(木下秀美・教育と人間関係の相談室カンナ代表・精神保健福祉士)
2014年10月26日付「京都民報」