「心の専門家はいらない」、小沢牧子さんとお話。
2003/04/29
26・27日と日本臨床心理学会の総会(三重県名張市皇學館大學名張学舎にて)に参加してきました。この学会には心理臨床分野で大学で研究・教授されていたり、病院や各種障害者施設、児童相談所などの臨床現場で活躍されている方、教育現場の教職員など、実に様々な立場の方々が加入されています。27日の午前中は記念講演として小沢牧子さんが「心の専門家はいらないー社会臨床学会ー10年をふまえて」というタイトルで話されました。私は講演開始前に小沢さんにアタック、講演後の昼休みに無理を言ってお話させていただく約束をとりつけました。長男の死後3年、その死を受け入れられないまま悩み続け、「心」について学びカウンセラーをめざして放送大学で学んでいるが、その方向性についての是非などを聞きたいと思い、氏の懐に飛び込ませていただいたわけです。小沢さんの考え方については著書「心の専門家はいらない」(洋泉社)、「心理学は子どもの見方か?」(古今社)、「『心のノート』を読み解く」(かもがわ出版)などで読み、当日の講演でそれなりに理解していたつもりでしたが、私の心理学に対する幻想をきっぱりと否定されました。「心理学は人と人との違いを明らかにし序列化することが出発点であり、心の傷ついた人を病者として分離し続けている。人を楽にさせるものではなかった」「カウンセリングを生業とするには一定のカリスマ性が必要であるが、それは幻想をふりまくことで成り立つ。様々な技法・療法があるが、決まった時間と場所の中で人と人が心を開き語り合うことができるでしょうか? 時間にとらわれず相談にのってあげることが大切で、それに値段がつけられるでしょうか?」「お子さんを亡くされたという大きな体験や20年間の印刷会社での仕事を通しての経験などを相談の中で生かしていかれては?」……というご指摘を30分以上時間を割いて話していただきました。これらのお話はとてもすっきりと腑に落ちました。臨床心理士の経済的基盤作りとしての国家資格化や、スクールカウンセラー配置制度の動き、「心のノート」に象徴される公教育への心理技法を使っての心理の介入など、心理ブームの中で臨床心理士のロイヤリティー確保と国家権力への迎合が結びついて、ますます臨床(ベッドに横たわる病者への治療行為)を必要とする人を増やし続ける心理臨床のあり方には、もちろん反対です。一方で不安とストレスにあふれる社会にあって、また核家族化や個人主義化がすすむ中で、「話を聞いてもらえる人」を必要とする人の増加も否定できません。
小沢さんのように臨床心理の奥深くを知り尽くした方であるからこそ、そこからの乖離をすすめる中で心の解放感を味わいつつ、「相談」というものの本来的あり方を明確に認識できるのだと思います。私は今回の小沢さんから頂いた貴重な時間の中で学んだことを大切にしていきたいと思います。臨床心理についてこれまで以上に批判的立場で引き続き学びつつ、私なりの「相談」活動のあり方を模索し続けることにします。
話は変わって、25日の夜には京都教育文化センターで月例開催の京都の「親の会」に参加させていただきました。学校により、学校長により、教師により、不登校の子どもに対する関わり方は実に様々です。既存のスクールカウンセラーがその主旨たる役割を果たしているという話は残念ながら聞かれません。「親の会」はグループ「相談」の場としてとても有効であることを痛感しました。多人数となるとそうもいかないでしょうが……。個別「相談」のニーズは、はたしてどれくらいあるのでしょうか?