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        学習性無力感と強迫行為、防衛…。学校は育ちの場でもある
        2003/05/11
        人は自己の気持ちと日々経験する外的な環境とが適応できないとき、その外的環境から離れたり変えようとしたり、あるいはより高次な対応として自身の気持ちの持ちようを変えようとします。これは大人の場合で、自己概念を守るために様々な防衛行動をとることができます。この適応や防衛行動ががうまくいかない時に神経症性の症状が出るなど、不適応状態が他者から一定目に見える形で現れますし、自身がそれを訴えることがあります。でも、児童期・思春期の子どもたちが適応できない環境に長期間置かれたとしたら、どうなるでしょうか。特にそこに行くことがあたりまえとされる学校という場では、どうでしょうか。自己の気持ちをきちんと理解できず苦しみを表現することも、困難なのが子どもたちです。防衛反応としては、その場から離れる方法、つまり登校はするものの教室には入らないで保健室や別室などで1日を過ごす登校型やきっぱりとその意志を示す「行かない」不登校(こんな言葉を考えてみました)か、その環境に耐えられるだけ耐えるものの限界に達した時に何らかの自己防衛反応として神経症性の諸症状等が現れ行きたいのに「行けない」不登校か、非社会的な様々な行動と場を探すか、いずれにしても自身の心の居場所をゆがんだ学校教育の現場以外に求めるのではないでしょうか。荒れ、成立しない授業、信頼のない人間関係、いじめや暴力、こうした長期的な学校での経験を積む中で長男は、その環境に何とか自身を適応させようと努力し、外的環境はもちろん自己概念を変容させることもできないことを学び無力感を募らせたのだと思います(学習性無力感の形成)。しっかりと気づき関わってあげることができませんでしたが、頻繁な手荒い等の強迫行為を続け、そして防衛の手段として「行けない」不登校の選択を余儀なくされ、学びたい気持ちを実現できない焦りと、「行けない」自身への自己否定を募らせていったのだと思われます。
        義務教育を行う学校は、学びと育ちという子どもの権利を保障する場だと思います。でも少なくない中学校においては、この育ちへの保証が「生徒指導」というものに置き換えられ、校則や学校秩序を守らせることがことさらに徹底され、それを乱す子どもは「困った子」「問題児」として管理統制下に置かれ時には罰を受けます。こうした行動抑制や罰の強制は一時的に問題とされる行動を抑制する効果がある場合もあるようですが、消失させることはできません。また繰り返したり形を変えて再燃してしまいます。こうした表面的な対処療法(?)的生徒指導しか行えない学校というシステムとその管理姿勢に失望を覚えます。「困った子」「問題児」と名付けられる子どもたちがそうした行動を起こすには内面における原因があり、それを受け入れ寄り添う指導、大人による豊かな人間的関係形成が必要だと思います。その意味において、1日の生活の大半を過ごす学校においては大人としての教師の役割、それを保証する学校職場のあり方は自ずと見えてくるのではないでしょうか。茶髪等の校則違反を理由とした学校に入ることの拒否、人権侵害の持ち物検査、罰則強制などが子どもの人格を認めない、信頼関係の欠如した社会を形成していること、そこでは人間としての豊かな成長が望めないことに、学校設置者や学校管理者は気づき、対応して欲しいと思います。「教育の専門家にまかせろ」などとおっしゃる前に、教育基本法や子どもの権利条約に託された教育への人々の願いを今一度考えて下さい。親子関係、家族関係における大人の役割やあり方等についても学び思考を続けていますので、近々書き込むと思います。