ストレス対処のいろいろ……、長男と私の場合。
2003/06/09
京都教育大学の公開講座「こどもとストレス」2回目を7日に受講しました。人間は様々な有害な刺激(ストレス)に対して心理的な媒介過程を経てストレス反応をします。授業が聞こえない、学べない、荒れが怖い、いじめなど同級の人間関係に耐えられない、教師が信頼できない……。こうしたストレッシャーに長男は情動的に不安と不信という反応から学校に行けないという自己防衛の行動的反応が出ました。そして家に居ながらの日々の中で自尊心と自己肯定感を失い、うつ抑から腹痛や頭痛といった身体的反応を出しながら、手荒いなどの強迫行為が現れました。そんな自分を理解してくれる人もなく、エンパワーを受ける友だちとも疎遠となり、学習的無力感の中受験を迎え、究極の回避的対処として自ら現実世界とさよならしました。子どもは、この心理的な媒介過程が短いというか、短期的に反応に至る場合が多いそうです。直面しているストレスをどう考えどう向き合うかという媒介過程、様々な体験と思考により複雑多岐なバリエーションを持つそうで、その結果様々な対処(コーピング)を行いながらそれなりに折り合っていけるようになるそうです。長男の中学時代は管理主義的生徒指導と荒れとの闘争の渦中にあり、思春期(前青年期)で身につけたい仲間との遊びや豊かな人間関係や安心感、行事などを通しての様々な協同体験、年長者への信頼感などがほとんど築けなかったと思えます。私の場合は、長男の死というPTSDに自己否定的な認知的評価を繰り返しながら、多くは問題解決(原因究明)に焦点をあてた対処行動を強力に行い、徐々に情動に焦点をあてた対処を行ってきたように思います。ある時点で断面的に見れば問題解決的であり、また違う時点では情動的であるため、継続的に私を観察した人には「二面性」があると映ると思います。自身でもそう感じています。
大阪教育大付属池田小事件で学校管理者・教職員に処分が下りました。殺人目的で乱入した部外者による殺傷事件という不測の事態への安全管理と対応をめぐっての処分ですが、教師による体罰や黙認されたいじめ事態の直後にその子どもが自殺した場合など、学校に起因していることがはっきりしている場合にも、安全管理と生徒指導に対する管理職と教職員の責任があると思われます。これまでの訴訟ではこの責任が十分に明らかにされて来なかったように思います。当該の管理者や教員は、遺影の前では個人として涙を流すものの、教育委員会のフィルターを通った後に「学校側」になった途端に黙秘と記憶否定、「やれることはやってきた」という自己肯定を行うことが共通しています。池田小での処分はそんな意味でとても大きな前例となります。今後の展開が、子どもの目線で、その命の重みを十分に考慮された形ですすむことを望みます。