11 「シンポジウム『いじめ』『体罰』のない学校と社会へ PART2」で再びの発言
2021/09/27
今年4月29日に開催された、シンポジウム「『いじめ』『体罰』のない学校と社会を」の報告集が発刊され、そのつどいが10月14日に開催されました。
<主催者のサイト>
http://www.jcp-kyoto.jp/activities/2013/11/part2-1.html
同じ動画です。時間のある時に観てやって下さい。
↓以下は、10月14日「つどい」での発言内容です。
いじめ・体罰・不登校・非行…
学齢期の子どもたちへの寄り添いを考える
2013.10.14 精神保健福祉士 木下秀美
早いもので、4月のシンポジウムから半年近くが経ちました。この間、学校、社会から、いじめ、体罰をなくすという視点で多くの方が力を合わせて取り組むことの必要性を、さらに強く感じて来ました。
4月の報告集を前提に、その後の新たな思いなども含めて、補足的なお話しをさせて頂きたいと思います。
私は40歳を前に、個人的な体験からそれまでと違う人生に切り替えて生きて行くことになりました。
私は、大切な長男を不登校が続く中、高校受験の日に自殺で亡くしている自死遺族の一人です。
いじめ、体罰、行きすぎた指導などによって児童・生徒が自殺に至るケースは、大津のいじめ自殺事件あたりから社会的に認知されるようになってきています。しかし、死に至らないまでも耐えがたい苦しみを体験し、不登校になったり、自殺を考えたり、消して消えることのないトラウマを背負ったままその後の人生を生きて行かなければならない子どもたちの多さに、もっと注目していく必用があると思います。
私の長男は不登校状態の中での自殺ですが、不登校を選択した理由は学校の荒れに起因するものです。長男の死後、京都弁護士会に人権救済の申し立てを行い、弁護士会は当時の学校の荒れや、それに対して適切な対応ができていなかった不作為を明らかにしました。不登校が生じる現場には、いじめも様々な問題行動も、また管理・統制の枠組みにはめられ上からの指示通りに動くしかない教職員の実態も、5教科の成績や偏差値を最優先する高学歴信仰から抜け出せない大人たちも、子どもたちが問題行動を出し始めた時に家族だけの責任にせずに学校・地域で守っていくという視点を失っていった大人たちも、環境要因として存在しています。
子どもたちには、教科の学力ももちろん必用ですが、大人になって社会で生きて行く力、社会的スキルや生活する力を、学齢期に獲得してもらう必用があります。
学校は、教科指導だけでなく、育ちの場としての子どもたちへの支援的関わりが必用です。教科指導を妨げるさまざまな問題が生じた時に、「困った事態」として管理・統制だけの「生徒指導」に終始するだけでなく、そもそもなぜその問題や事件が生じたのか、その背景の友だち関係や家族関係などがどうなっているのか、渦中にある子どもたちはどんな心理状態にあるのかを丁寧に把握し、理由も事実経過も解決の方向性も、子どもたちを真ん中において子どもたちと一緒に取り組んで行く必用があります。学校にとって、その学年は1年経てば終わりかも知れませんが、子どもたちにとっては生涯消えない体験記憶として刻まれるからです。
さて私は、小さな相談室を開設しています。
不登校・ひきこもり・いじめ・それらの要因になりやすいとされる「発達障害」をはじめとして、さまざまな家族のドラマに、第三者として関わらせてもらっています。
最近では、成人された後、就職活動で挫折を味わってひきこもってしまう、精神症状を出されるというケースが実際増えています。
生い立ち・生育歴をお聴きしていくと、小学校時代のいじめ(同級生や教師によるもの)、親・家族や教師などから評価してほしいのに無視されたり「もっと頑張れるはず」と、どんなにがんばっても認められない体験、一方的な決めつけや理解できない叱責や非難・否定の積み重ねなどをトラウマとして重く背負いながら、学習面だけでなく、学齢期や思春期における発達課題にきちんと向き合い乗り越えることができないまま、低い自己評価、社会的および対人的スキルを充分に獲得できないままに大人の社会へ参入しようとした時に、準備不足から「自分には無理!」と早々に自身を守るために社会参入への挑戦を諦めてしまう、などのケースです。
それまでの発達段階で抱えてきた課題が一度に集結し吹き出したかのように、家族を巻き込んで、出口の見えない底なし沼のような家庭状態になってしまいます。
自閉症スペクトラム特性のある子どもへの支援についての研究では、0歳〜5歳までに個別的および集団的に社会生活上のスキル=場面や状況での適切な行動や対応ができる力が一定レベルで獲得できていれば、小学校でいわゆる「困った子」にならないで済む確率が高いことがわかってきています。
そして、子どもたちの人格的な成長は、脳神経細胞の発達に沿って、概ね18歳頃までに大枠が形作られるとされています。学校に所属している年齢です。学校という所が、いかに子どもの成長・発達にとって重要な所か、良くも悪くも大きな影響を与える所であるかを、理解し、一人ひとりの子どもにとって成長・発達を促進する環境として整え直して行く必用があると思います。
子どもたちの「社会」、学校で生じていることは日本社会の縮図です。
・競争
・ハラスメント
・偏差値など特定の「基準」による「評価」
・格差、貧困
・「標準化」、「コミュニケーション力」などが必要以上に強調される
今の時代を生きている、生きて行く子どもたちは、おそらく人間が耐えられるレベルを超えたストレスに晒されています。大人もそうでしょう。
しかし、子どもたちは、これからを生きる存在です。大人が力を合わせて、ストレスが今よりもずっと少ない社会を譲り渡して行けるように、力を合わせて努力して行きませんか?
大切なのは、子どもの声を聴く、「困り」を理解する、一緒に考え行動することです。
子どもの権利条約の前文には、「児童が、その人格の完全なかつ調和のとれた発達のため、家庭環境の下で幸福、愛情及び理解のある雰囲気の中で成長すべきであることを認め、児童が、社会において個人として生活するため十分な準備が整えられるべきであり、」と書かれています.
・私たち大人は、子どもがそれぞれ一人の人格、権利を持った「人」として対応できているでしょうか?
・「問題」、「困り事」の客観的な把握、改善・解決に向けて、大人の立場や都合を優先することなく、柔軟で臨機応変な集団的・組織的な取り組みができているでしょうか?
・その子の育ちの歴史・環境・体験やそれらの受け止め方、心理社会的な生活環境などをしっかりと把握した上での対応になっているでしょうか?
一つひとつの事案で、こうした視点をもって向き合って欲しいと思います。
ちなみに、子どもの権利条約の中で、いじめ・体罰などの事件において抵触すると思われる項目を拾ってみると、差別の禁止、子どもの最善の利益、立法・行政その他の措置、親その他の者の指導の尊重、生命への権利、生存・発達の確保、身元の保全、意見表明権、表現・情報の自由、結社・集会の自由、プライバシィ・通信・名誉の保護、マス・メディアへのアクセス、親の第一義的養育責任に対する援助、虐待・放任からの保護、家庭環境を奪われた子どもの養護、障害児の権利、健康・医療への権利、社会保障への権利、生活水準への権利、教育への権利、教育の目的。ざっとこのあたりでしょうか。文面では、締約国を主語に、「児童の最善の利益が主として考慮されるものとする」「児童の生存及び発達を可能な最大限の範囲において確保する」「自己の意見を形成する能力がある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する」「あらゆる形態の身体的もしくは精神的な暴力、傷害若しくは虐待、放置若しくは怠慢な取り扱い、不当な取り扱い又は搾取(性的虐待を含む)からその児童を保護するすべての適当な立法上、行政上、社会上及び教育上の措置をとる」などの部分を、この国で起こっている実態と照らし合わせて読み直すと、子どもたちに対していかにいい加減な対応を押し付け、ストレスを与えているかに気付けると思います。
少しずつではありますが、学校における事故・事件の未然防止や適切な対応に取り組めるような仕組みが作られていっています。
私も10年以上、行ける時参加という形ですが、「全国学校・事故事件を語る会」という家族・当事者を支える全国組織が活動を続けています。
また来月には、この「全国学校・事故事件を語る会」がサポートをしている訴訟事案などについて弁護士有志によって「学校事故・事件被害者全国弁護団」が創立される予定と聞いています。
いじめ防止対策推進法という法律が、遅ればせながら急に成立、9月28日に施行されました。多くの自治体で、この法に基づいた独自事業が動き出しているようです。この法を中身のあるものにできるかどうかは、私たち大人の行動に係っています。
最後に、子どもたちの学びや育ちに関わるみなさんに、ほとんど私自身に跳ね返ってくる提案、お願いがあります。
学術的領域としては「人間発達論」「発達心理学」「学校臨床社会学」など、子ども理解への学びを深めましょう。
これまでのやり方やマニュアル、組織の決め事や上下関係などにとらわれることなく、家庭、地域資源などとの具体的な協働・連携、ケース毎に実情に応じて創り上げ、子どもたちの間に生じる問題の解決のために取り組みを蓄積し、広めていきましょう。
以上、私からの訴えとさせていただきます。