カンナの原点

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▼人権救済の申し立て(全文)

向日市立勝山中学校における学習機会の保障と管理主義的指導の解消、登校拒否生徒への特別の対応について京都弁護士会人権擁護委員会への申し立て

二〇〇〇年十月三日
京都府向日市寺戸町芝山三番地の一七一 木下秀美

▼人権救済の申し立て(全文)

要望の趣旨

勝山中学校の生徒指導のあり方について、勝山中学校及び乙訓教育局、向日市教育委員会に対し、次の諸点を要望します。

一、登校できなくなった(保健室登校など教室に入れない子どもも含め)子どもの実態を正確に把握し、公表し、子どもの人権を最大限尊重した解消への対策を早急に検討し、公開し、実行すること。

二、学校が、登校できなくなった子どもと、信頼関係を築くための取り組みを継続的に行い、その子どもの状況に応じた十分なケアを保護者と共に取り組むこと。
また、登校できなくなった子どもを持つ親同士の学校内での取り組みを認めること。

三、登校できなくなった子どもへのケア、その親への援助等について、必要に応じて教職員集団が十分な討議・検討ができる物理的条件を学校として保障すること。

四、登校できない子どもの居場所を校内(保健室でなく)・校外につくり、そこへの通所を登校とみなすこと。
また、そこでの勉強を希望する生徒に対しての教育を保障すること。

五、学習機会を失った子どもたちを放置したままにせず、遅れをとり戻し、学力保障に必要な体制を十分にとること。

六、登校できなくなった子どもに対し、卒業後の進路について、本人の希望、到達点等を充分に考慮し、多様な情報を提供することにより、進路問題での不安を最大限解消すること。

七、頭髪チェックや持ち物違反などへの『生徒指導』において、登校時や休憩時間等における校門等での監視立ちや上下関係を前提とした力による対応等による管理主義的な指導を改め、子どもたちを信頼し、子どもたち自身が自らの問題として考え、討議する取り組みへの働きかけを強める中で改善に向かうという立場での子どもとの関わり方に改めること。

八、学校内で発生したできごとや子どもとの関わりにおける課題等について、隠すことなく、保護者や地域を、共に課題解決にとりくむものとして位置付けること。

要望の理由

勝山中学校においては近年、同市内の他中学及び全国平均を大きく上回って登校拒否を起こす生徒が存在していました。
特に平成11年度には、720名に対して5.14%に当たる37名が不登校だったとされており、中でも50日以上が32名にものぼっています。
(向日市情報公開条例に基づく向日市教育委員会の回答/別紙資料)
99(平成11)年度卒業の学年においては、特に98年の9月(2年生・二学期)当初より多くのクラスで授業が成立しない状態となり、それに伴って教室にいることに耐えかねた子どもたちの登校拒否が増加しました。

私たちの長男・木下学(1984年10月15日生)もこの頃より朝になると熱が出て身体が動かないなど。
学校に行くことができない日が多くなり、12月:9日間、1月:9日間、2月:13日間、3月:7日間を欠席しました。(別紙資料)
PTA主催で学年懇談会を開催して実態を話し合い、公開授業などの取り組みも行いましたが、事態を改善する方向には向かいませんでした。
事態の重大さを深く憂慮した保護者有志で、99年3月16日付けで、学校長及び向日市教育委員各位に対し『子どもたちに確かな学力と、豊かな学校生活がおくれるようにしていただく要望書』を提出。(別紙資料)
授業の成立、遅れへの補充等による学力の獲得と、学校生活がいきいきとおくれるように求めましたが反応はまったくありませんでした。
長男は3年生の一学期になると受験を意識してか、ときには休みながらも登校しましたが、夏休みを終えた二学期からはまた行くことができなくなり、9月末頃より学校に全く行けなくなりました。

小学校の頃より真面目な頑張りやとして将来にも期待を持ちつつ育てていた私たち親には、この登校拒否という事態に直面したときの驚きといったらありません。
勉強面でも、特に算数には「できる」という自信を十分に持っていましたし、学童保育時代にはけん玉のクラブチャンピオンにもなり、マラソン大会等では常に上位入賞、中学1年生のマラソン大会でも学年3位でした。
中学の学習面においても、1年の一学期までは彼なりの成績を修めていたようです。
三年生の秋、学校にまったく行けなくなった頃に改めてその理由を尋ねたところ(それまでにも何度か尋ねていましたが、学校の荒れた状態やできごとをポツリポツリ話してくれただけでした)、「授業がわからない、ついていけないのにどんどん進んでいく」と悔しそうに応えてくれました。
おそらく、1年生の頃より授業での学習につまずき、「ついていけない」まま教室の机に向かっていたのでしょう。
誰にも相談できないまま、じっと、そっと、自身の胸にしまい込んで、その理由を自分のせいとして……。

そして、もう一つ大切な「行けなくなった」要素があります。
勝山中学校は向日市の中で生徒指導におけるモデル校的位置付けにあるようで、生徒指導の加配教員が複数配置されるなど。
特に『問題のない学校』であるように管理が強められているように思えます。
髪の毛を茶色等に染めた子どもの入校を校門で阻み、ときには黒色のスプレーをもった教師が「ここで黒くしたら入れてやる」といった対応や、一部の荒れた子どもたちに対しては、個別に張り付くマンツーマンの指導や教室から子どもが出ていかないように入り口で待ちかまえているといった『指導』が常時生徒指導及び担当加配教員によって行われるなど、常識では考えられない管理主義的な指導が常態化していたようです。
この一部の荒れた子どもへの対応に指導を集中したために、他の子どもの中からこの荒れに追随する子どもが増えて崩壊の度を増し(外出や授業中の立ち歩き、おしゃべり、CDウォークマン、携帯電話等の怠学的行為、教師への挑発行為などによる授業妨害等)、残された真面目なおとなしい子どもたちはこうした環境に耐えながら、教室で座ったまま放置されることを余儀なくされていました。

また一方で、少なくない授業が画一的、消化的に行われ(黒板に書いた例題をノートに書き写させるも、先を急ぐためか一部の子どもが書き終わると消してしまう等)、一度つまずくと二度と追いつけない授業が行われ、つまずいた子どもたちはわからないまま放置されました。
授業では放置され、他の時間は監視されるという毎日が続いていました。
長期にわたる授業の不成立や増加する登校拒否で多くの子どもたちが学習機会を奪われたにもかかわらず、それを補う対応が学校として何ら行われなかったことは腹立たしく思えてなりません。
現に、長男の二年生の時の授業ノートは、ついに今でも一冊も見あたりません。

我が子が学校に『行けなくなった』とき、誰に相談したらよいのか、誰に相談できるのか、全く宛がありませんでした。
夫婦で悩み続けた、本当に苦しい毎日でした。
スクールカウンセラーのカウンセリングを受けることを担任よりすすめられましたが、結局両親が各一回お会いしたのみでした。
そもそも学校に行けない子どもが、学校のスクールカウンセラーに会いにいけるでしょうか?

また、2年生の頃より、長男が自身の頭髪の癖毛を気にし始め、週に何度も自分のハサミで髪のはねた部分等を切る、という行動を頻繁にするようになりました。
真相はわかりませんが、登校時の頭髪チェックの際に何らかの指摘があったとか、あるいは誰かに癖毛を嘲笑されるようなことがあったのでしょう。
異常なほど自分で髪を切ることに固執していました。
できれば真相が知りたいと思います。

教師への暴力を理由に警察によって子どもが逮捕されるというできごとや、弁当に洗剤が撒かれるという事件も発生したようですが、保護者からの公表・説明の要望に学校側は耳を貸さず、学校としての保護者への報告は一切行われないなど、学校と保護者の結び付きを拒む力が働いていたのも事実です。

学校に行けないことは、『授業が受けられない』ことを意味します。
『学びたい』気持ちを持ちながら、上述のような状況で学校や教室にいることに耐えられなくなった長男は、学校に『行くことができない』状態になりました。
自らの意志に逆らうように下がる一方の成績(テストの点数)、監視と放置の教室がこの登校拒否を生み出したと思います。

受験を意識し始めた子どもたちが3年生になると「少し落ち着いた」と言われていました。
ですが、それまで長期にわたって授業が成立していなかった中で学校での受験に向けた勉強が十分に保障されないまま放置された子どもにとって、高校進学の願いが強い子どもほど自己への自信の喪失感は強いものと思われます。

こうした中で今年の2月4日。
私立高校の入試当日未明に、私たちの長男が自室窓から外に向かって首を吊って自殺しました。
机の上にあった遺書には、「自分に自信がなくこのままだと、ろくな大人になれないと思いました。これ以上家族や先生にはめいわくがかけられないと思った。」(全文)と書かれてありました。
学校や教育委員会は「進路問題で悩んでの自殺」として、「学校側に一切の落度はない」と公表し処理したようですが、単に自殺の原因が進路の問題だけでないことは遺書を読めばわかることです。

自殺当日の早朝、出張先の東京で訃報を聞いた私は新幹線で飛び戻り、病院で冷たくなった長男と対面しました。
間もなく担任と学校長が病院に来られ、担任に涙ながらに弔いの言葉をかけていただいた後に学校長から、極めて事務的に「今回のことは受験期ということもあり『自殺』ということではなく、ただ死亡したとだけ全校に伝えたい」と申し出がありました。
弔いの言葉もないままに、息子の死に直面した直後の親に対して。
聞けば、緊急の校長会が開かれた後に来られたそうです。
自らの教え子が人生に絶望し自らの首をくくって死を選んだというのに…。
こんな理不尽な、無念な思いをしたことは初めてでした。

また、その日の夜にはPTAの本部役員と3年生の学年委員だけが学校に呼ばれ、事態が報告されたようですが、その際に教頭が「いじめとかがあったわけではないから、裁判になったとしても絶対に勝てる」と話していたそうです。
それを聞いて、あきれるというか。
学校というところは人の命よりも、学校及び管理職の立場や体面を重んじるところなのだと、その冷たさ、恐ろしさとともに改めて憤りを感じました。

長男の死に際してこんな悲しいことが二度と続くことがないように、葬儀参列者の皆様に文書(別紙資料)を配布し、事実経過とその日の心境について率直にお伝えしました。

長男の死に際しては、生徒に対して『死んだこと』の報告は学年ごとに一応形式的に行われたようですが、保護者向けにはPTA本部からの要望にも関わらず、ついに行われませんでした。
学校での居場所を失い登校拒否に悩みながら、学力と進路等を苦にしての自殺(自宅でのできごととはいえ)に対しての勝山中学校の対応は、学内に向けてのこうした『死』の報告だけでした。
原因の究明や、このできごとを教訓にして改善に向けていこうという姿勢を感じることは残念ながら全くできませんでした。
なぜ、現実に正面から向かい合い、今後の教訓とするためにみんなで考えるということができないのでしょうか?

繰り返しになりますが、自殺という選択に彼を導いた主たる原因は勝山中学校においての学習機会の喪失と放置、その中での自己の見失いにあると思います。
死後、多くの方と話し合う中で、当時の状況を聞くにつけ『こんな学校に通っていたのか』という残念な思いが募るばかりです。

これらの原点とも言うべき『管理主義的指導』に萎縮させられていたのは子どもたちだけではありません。
PTAにおいては、配布文書はすべて検閲され、企画する行事は強引に縮小・廃止へと追い込まれる等しています。
また教職員についても、管理マニュアルに沿った点検を軸とする指導が強力に行われる一方で、職員会議が開催されない、教師同士の相談や討議ができないなど、自主的・民主的な取り組みを行う条件がまったくといっていいほど無かったようです。
こういった教育現場での当時の実態をぜひ明らかにしてもらいたいと思います。

私たちの次男は現在小学4年生で、私学に行かない限り2年半後にはこの中学校に通うことになります。
そして、現在の勝山中学校には、まだ極めて多数の『学校に行けない』子どもたちがいると聞きます。
家庭で、地域で、不安・不信が渦巻いています。

このように子どもたちの心を歪ませた実態とその原因を明らかにし、一人ひとりの子どもを主人公に教職員と親がそれを支え合いながらすべての子どもたちが人として大切にされつつ充分に学び、学力を身に付け育っていける勝山中学校に一日も早く変えていく必要があること、そして何よりも、私たちが体験したこのような悲しいできごとが二度と起こらないことを心から願って上記要望を申し立てるものです。