カンナの原点

origin

▼弁護士会からの「要望書」(全文)

京都府教育委員会委員長、向日市教育委員会委員長、
向日市立勝山中学校校長宛に執行された「要望書」

▼弁護士会からの「要望書」(全文)

要望の理由

「第1:申立の内容」
1.申立に至る経過
2000年(平成12年)2月4日、申立人木下秀美(以下「申立人」という)の長男である亡木下学君(以下「学」という)は、私立高校入試の日の朝、自宅で首を吊って自らの命を絶った。
遺書には「自分に自信がなくこのままだと、ろくな大人になれないと思いました。これ以上家族や先生にめいわくがかけられないと思った。」と書かれていた。
学は、1997年(平成9年)4月、向日市立勝山中学校に入学したが、学の学年では、2年生の頃から「荒れ」により授業が成立しない状況があった。
その中で、学は1998年(平成10年)の秋頃から休みがちになった。
そして、3年生になって1時期は登校するようになったが、だんだんと欠席が増え、1999年(平成11年)10月からは完全に不登校になってしまった。
学は、進路を決める12月の三者懇談の日にだけは登校し、そこで1つだけ示された私立高校に下見に行き、願書を出し、受験の準備をしていたが、その入試当日の朝に自殺したのである。
この自殺について、当日病院に来た校長は「受験期でもあり、『自殺』ということではなく、ただ死亡したとだけ全校に伝えたい。」とだけ申立人に伝えた。

2.申立の趣旨
申立人は、勝山中学校、京都府教育委員会乙訓教育局、向日市教員委員会に、要旨以下のとおり要望をするとして、京都弁護士会(人権擁護委員会)宛てに人権調査の申立をしている。
すなわち、

1.不登校児童の実態を把握し、その解消対策を検討して、公表・実行すること
2.不登校児童と信頼関係を築くための継続的取り組み、そのケアを保護者と取り組むこと。そして、親同士の学校内での取り組みを認めること
3.不登校児童のケア、親への援助について、教師が討議・検討する条件を学校として保障すること
4.不登校児童の居場所を用意し、そこへの通所を登校とみなし、またそこでの学習を保障すること
5.学習機会を失った子どもを放置せず、遅れを取り戻すなどの体制を作ること
6.不登校児童の進路問題には、本人の希望、到達点などを考慮し、多様な情報を提供して、不安を解消すること
7.頭髪チェック、持ち物検査などの生徒指導において、管理主義的な指導を改め、子どもを信頼し、子ども自身が考える方法で改善していくような、関わりかたにすること
8.学校内でのできごと、子どもとの関わりにおける課題は、保護者、地域とともに取り組むべきものと位置づけること

以上の内容は、被申立人ら教育に携わる学校等への要望であるところ、人権調査の課題を超えるところもあるので、当会は、申立人の了解を得て、以下の申立の内容に沿って、人権侵害の有無を調査することとした。
すなわち、学は、小学校までは、よほどのことがない限り、学校を休んだことは無く、算数、マラソン、けん玉など自信に溢れた子どもであったが、勝山中学校に進学してからは、自己を見失い、不登校そして自殺の経過を辿った。
この事実から、在学した約3年間の勝山中学校での教育、生徒指導の実態を、以下の3点に重点を置き調査されたい。

1.入学当初から「ついていけないのにドンドン進んでいく」と子どもは発信していた。
「荒れ」の広がりがあった2年生における授業の実態、学校の対応の調査

2.2年生の秋ごろをピークにした「学年崩壊」に対して、学校は「管理マニュアル」に沿った画一的指導で対処していた。
一人ひとりの子どもに寄り添った指導があったのかどうかの実態の調査

保健室100名、不登校37名という勝山中学校の1999年の実態に対して、学校の対応はきわめて不十分であり、不登校児童、その親に対する対応、ケアはほとんど無かったことについての学校に見解を求めたい。

「第2:調査の概要」

・2000年10月3日:人権救済申立

・12月5日:本調査開始

・2001年1月27日:教職員組合、保護者らからの聴き取り

・3月5日:向日市からの情報公開結果を申立人から受領

・3月16日:元同級生らからの聴き取り

・7月2日:元担任教員らからの聴き取り

・7月19日:申立人宅訪問(申立人夫婦から聴き取り)

・8月29日:元東宇治中学校不登校加配教員から聴取

・9月28日:勝山中学校に照会

・10月16日:勝山中学校より文書回答

・10月22日:乙訓教育局、向日市教育委員会に照会

・11月13日:向日市教育委員会より文書回答

・11月19日:乙訓教育局より電話回答

・12月25日:京都府教育委員会に照会

・2002年1月15日:京都府教育委員会より電話回答

・3月22日:勝山中学校に電話照会、回答

「第3:調査の結果認められた事実」
この間の調査、すなわち申立人、元同級生や保護者、乙訓教職員組合関係者、元担任教員らからの聴き取り、並びに、申立人が公文書公開手続等によって入手され提供された関係資料などから、以下の事実が認められる。

1.学の生活史
(1)中学校入学まで
(ア)学は、1984年(昭和59年)10月15日生まれ、父母とも有職者であるため、1歳半まで、里親に世話になり、のち、公立保育所に入る。
通園は、父親がバイクで送り迎えをしていたという。
(イ)小学校時代の学は、よほど病気でもない限り、ほとんど休みなく学校にも、学童保育にも通っていた。
〈略〉
(2)勝山中学校での生活
〈略〉
(3)以上、学の個人史をみると、小学校時代は活発な子どもとして小学校生活を享受していた。しかし、勝山中学校に入ってからの急激な成績の落ち込み、授業についていけない、ノートが取れない、不登校、そして、「評価不可能」の成績表(後記)を受け、学校が勧めた高校受験の日に遺書を残して自殺するという、学校教育から脱落していった経過が顕著にみられる。

一方で、不登校生徒であっても、家庭においては、自分で日課を立て、生活を頑張っていた姿が伺われる。

2.勝山中学校の「荒れ」の状況について
(1)「荒れ」の実態について
(ア)学の元同級生が供述する当時の学校の状況
1年生の2学期から学年全体で生徒が騒がしくなり、3学期からは、科目によっては授業がほとんど成り立っていないクラスが出現するようになった。
そして、学が2年生になってからは校舎3階に教室があった2年4組から2年8組までの各クラスが特に、科目によって授業が成立しない、騒がしい状態になっていった。
学は、2年5組に在籍していた。
例えば、英語の授業では、2学期の途中から本来の英語担当教員が病休となり、代替教員が授業を担当するようになってから、生徒が授業中に騒いで代替教員の話を聞かなくなり、授業が成立しなくなった。
また、学が在籍していたクラスではないが、あるクラスにおいては、クラス担任教員が掃除時間中に複数の生徒からカーテンで丸め込まれて、殴られたり叩かれたりして、生徒からいじめられるという事件もあった。
そのクラスでは、担任教員がプリントを配布した先から、生徒がプリントで紙飛行機を作って担任教員に向けて飛ばしていたり、また、教壇付近で屈んだ担任教員の後ろから生徒が教員の背中を押して、当該教員が教壇に頭部を打ったこともあった。
なお、生徒が騒がしかったこのような状況は、3年生になり、その学年生徒全体が高校進学に備えるときになった頃から、徐々に落ち着いていった。
(イ)保護者が供述する当時の学校の状況
1998年(平成10年)11月中に、学校からの申出により、保護者が数日間、校内を時間帯を指定されずに自由に見学できる「学校公開」の試みが行われた。
これは、いわゆる授業参観とは違う。
期間中であれば、一日中いつでも保護者が学校を訪れて、どのクラスでも、授業の様子を見てもらって良い、という試みだった。
その機会に保護者らが見た当時の学校内の状況は、以下のとおりであった。
あるクラスでは、教室中がゴミだらけで、授業中に紙くずや鉛筆、シャープペンシルなどが飛び交っていた。
また、他のクラスの生徒が別のクラスの授業に突然入っていったり、授業中に10人、20人の生徒が教室のドアや窓から三々五々出入りしたりしていた。
校舎の廊下では、生徒による怒号が飛び交い、教員と生徒との追いかけっこがあちこちで見られた。
さらに、生徒がエアガンで教員を撃ったりしたこともあった。
当時の学校の状況は、非行傾向にある一部の生徒が学校内で暴れているというのではなく、いわゆる普通の生徒が全く制御の効かない状態の中で暴走しているという状況だった。
また、暴れない生徒にしても、先生が板書するのをノートに書き取るでもなく、ただ無表情で前を見て座っているだけという、全体が非常に荒んだ状況が伺えた。
(ウ)これらの供述を裏付けるその他の証拠について
申立人から提供された公文書公開手続によって入手した関係資料のうち、1997年度(平成9年度)から1999年度(平成11年度)までの生徒指導問題事象報告書によると、学が2年生に在籍していた1998年度(平成10年度)の対教師暴力発生件数は年間59件であり、前年度の5件から激増していた。
翌年度の14件と比べても目立って多く、1998年度(平成10年度)の対教師暴力事象の発生件数の多さが際だっている。
また、対教師暴力だけでなく、生徒間暴力や器物損壊等を含めた暴力的事象全体の発生件数についても、1997年度(平成9年度)が106件、1998年度(平成10年度)が135件、1999年度(平成11年度)が62件とあり、1998年度(平成10年度)の発生件数の多さが、他年度と比べて目立っている。
さらに、元担任教員らからの聴き取りの際にも、学が2年生に在籍していた1998年度(平成10年度)当時の生徒指導加配(教育相談主任)教員や、他のクラスのクラス担任教員が、1998年度(平成10年度)2学期中には、相次いで病休しており、2年生全体が授業が成立しない、いわゆる「荒れ」の状況にあった。
(エ)聴き取り調査のなかで、元担任教員らは学の2年生在籍当時の学校が、授業が成立しにくい大変な状況にあったこと自体を認めているが、これを「荒れ」という言葉で表現することは終始避けている印象を受けた。
しかしながら、公文書公開手続によって入手し得た資料によれば、同校の1999年度(平成11年度)生徒指導部総括のなかで、当時の生徒指導部長自身が、1999年度(平成11年度)の同校の状況として、「昨年度からの“荒れ”の状況」が継続し、「問題事象の多発」あるいは「学校としての秩序回復にまで至っていない」状況を総括している。
また、その前年度に作成された1998年度(平成10年度)生徒指導部総括においても、当時の生徒指導部長は、1998年度(平成10年度)の同校の状況として、「新3年生を中心に…校内暴力の傾向にあり」、さらに「教職員の多忙により、不登校生徒・保健室登校の生徒対応が不十分で、養護教員に頼りすぎた部分があり、「教職員と生徒の心のふれあいは不十分であった」状況を総括している。
すなわち、学の元同級生や保護者の供述による当時の学校の状況は、生徒指導部長自身が総括しているところと符合しているのであって、学が2年生に在籍していた当時、同校の2年生全体が「荒れ」の状況にあり、クラスや科目によっては、授業がおよそ成立していなかった状況にあったということができる。
(2)「荒れ」の状況に対する学校の対応と学の状況について
(ア)元担任教員らからの聴取結果
前記のとおり、元担任教員らは、当時の2年生全体が大変な状況にあったと述べ、それに対する当時の学校の対応として、クラス担任だけに対応を任せるのではなく、加配教員を含め生徒指導部を中心として教員全体が概ね一致した対応を取ることができたと述べる。
そして、その例として、授業を担当してない空き時間には、複数の教員が校内を見回り、授業中に教室から出入りする生徒らに対して指導等を行った、あるいは、「荒れ」の状況がひどくなった二学期には、ほぼ毎日のように学年会議を開催し、学年全体で対応を検討したなどと述べる。
1998年(平成10年)11月中に行われた「学校公開」の試みについては、学校内の状況を保護者に見てもらうことで、校内の状況について、保護者との間で理解を共通にすることが目的であったとのことである。
(イ)その他の証拠と学の状況について
しかしながら、2学期の途中で、生徒指導加配職員自身と、他のクラスではあったがクラス担任教員が相次いで体の変調を訴えて、病休となっていたことは前記のとおりであった。
また、「学校公開」の試みについて、保護者らは、その後に開催されたPTA総会の場でも、学校長からは「学校公開」あるいは「荒れ」の状況について何の話しもせず、「公開」を何のために行ったのか、その意図はPTAにはまったく伝わらなかったと述べた。
さらに、1997年度(平成9年度)から1998年度(平成10年度)にかけては、同校の不登校生徒の人数全体が、17名から34名に倍増し、翌1999年度(平成11年度)も一向に減っていなかった。
そして、学の元同級生の生徒らの証言、すなわち、科目によってはまったく授業が成立しなかったなどといった状況をも総合すると、学が在籍していた2年生の担任教員らは、「荒れ」の状況への対処に忙殺され、学のような不登校の状態に陥った生徒一人ひとりに対しては、学校として、きめの細かい配慮を行えていなかった、と判断される。

3.不登校
(1)勝山中学校での不登校生徒の状況
向日市内には、勝山中学校、西ノ岡中学校、寺戸中学校の3つの学区に分けられた中学校が存在しており、各中学校の不登校の状況は以下のとおりである。

・1997年度
勝山中学校…17
西ノ岡中学校…14
寺戸中学校…8
合計:39

・1998年度
勝山中学校…34
西ノ岡中学校…10
寺戸中学校…11
合計:55

・1999年度
勝山中学校…37
西ノ岡中学校…7
寺戸中学校…8
合計:52

・2000年度
勝山中学校…20
西ノ岡中学校…4
寺戸中学校…9
合計:33

勝山中学校での不登校生徒の割合は、1997年度(平成9年度)は全校生徒の2.2%(生徒数757人、全国平均1.9%)、1998年度(平成10年度)は4.3%(生徒数775人、全国平均2.3%)、1999年度(平成11年度)は5.1%(生徒数720人、全国平均2.5%)にのぼっていた。
(2)向日市教員委員会の対応
このような不登校生徒の人数について、向日市教育委員会は、勝山中学校長に対し、1999年度(平成11年)8月25日付「不登校生徒に対する指導について」と題する書面により、不登校生徒の著しい増加に憂慮を示すとともに、不登校生徒が急激に増加している原因の分析とこれを解消するための取り組みを申し出た。
(3)勝山中学校の対応
勝山中学校生徒指導部においても、1999年(平成11年)12月15日時点で「不登校傾向生徒の増加(全国平均の約1.7倍)、対応が担任任せになっていたり、専門機関との連携や系統的、継続的な取組になっていない場合が多いのではないか。」という問題点が認識されていた。(「平成11年12月15日付生徒指導校内研修会」)
また、2000年(平成12年)になってから、「欠席が多い生徒(10日前後)の洗い出しと早期対応、連続欠席した場合には家庭訪問を積極的に行う。」「スクールカウンセラーとの連携を強化していく」などの対策が検討されていたが(平成11年度「3学期の重点課題と方針」)、結局、組織的な対応や段階的対応をきめ細かく展開できず、増加に歯止めをかけられなかった。(平成12年2月19日提出「平成11年度生徒指導総括」)
(4)学の不登校の状況
学は、1998(平成10)年の2年生の2学期から学校を休みがちになった。
欠席日数は、1998年(平成10年)9月はゼロ、10月は3日、11月は1日程度だったものの(但し、遅刻は9月は4回、10月は9回、11月は8回であり、学校に行きにくくなっていく徴候が認められる。)、12月は9日、1999年(平成11年)1月は9日、2月は13日、3月は7日と月の半分近くを欠席、同年4月、5月は各1日と再び登校する兆しは見られたが、同年6月は6日、7月は5日、9月は11日、10月は23日、11月は22日、2000年(平成12年)1月は17日を欠席し、3年生10月からは完全不登校状態となった。
(5)勝山中学校の学に対する対応
学の不登校に対しては、担任教員が何度か午後4時から5時ごろに家庭訪問をしていたが、本人に会って話を聞いてはいたものの、担任教員自身が十分に聞いてやれなかったという認識を持っている。
また、家庭訪問をするのは担任教員一人だけであって、養護教員その他の教員と役割分担をして家庭訪問をするなどの体制はとられていなかった。

なお、学校としては、担任教員と生徒・親との関係が難しい場合には、教育相談部の他の教員が家庭訪問に行くこともあるが、学の場合には、担任教員が学とも親とも関係ができていたので他の教員が行く必要はないと判断していたとのことである。
(6)向日市における適応指導教室
向日市天文館会議室には、不登校状態にある児童生徒が、できるだけ早期に学校へ復帰することを目指して通級する適応指導教室として、「ひまわり広場」が向日市教育委員会により設置されている。
「ひまわり広場」では、毎週火曜日と金曜日の午前9時30分~正午に通室した子どもに対しては、学校長が通級の対象とすることが認められていた。(「向日市適応指導教室設置要領」)
同教室は1998年(平成10年)、学が2年生のときに開設されたが、開設当時と3年生のはじめに案内は出していたが元担任教員らによれば、当時は教職員もあまり認識がなく、実際にひまわり広場を利用している生徒も少なかった。
1999年度(平成11年度)の成果は、通室指導生徒数は小学生2名、中学生1名の合計3名にすぎない(「向日市適応指導教室設置要領別紙」)。
勝山中学校又は向日市教育委員会が、学に対し、この教室に通うことを勧めた事実はない。
(7)勝山中学校におけるスクールカウンセラーの存在
1997年度(平成9年度)から2000年度(平成12年度)まで、勝山中学校にはスクールカウンセラーとしてI氏が赴任していた。(最初の2年は単独校として、後の2年は拠点校方式の拠点校として)
勝山中学校はカウンセリングルームを設置し、対象を生徒、保護者、教職員としてカウンセリングを実施し、生徒の場合は基本的に放課後の時間をとり、場合によっては担任や教科担任と相談の上、授業時間中のカウンセリングを実施していた。(「平成11・12年度スクールカウンセラー活用調査研究報告書」)
相談効果として、「再登校につながったケースもあるが、実質的な結果が出せないケースもある。」「生徒のカウンセリングで不登校予備軍をサポートすることで完全不登校を防ぐことができた」と総括されている。(「平成11・12年度スクールカウンセラー活用調査研究報告書」)

但し、カウンセリングの性質上、不登校でカウンセリングに来られない生徒に対してはカウンセリングは実施することが困難であるとして、学に対して家庭訪問までしてカウンセリングを行うことはなかった。
(8)勝山中学校における不登校加配教員の存在
後記のとおり、京都府内には、不登校生徒に対する専門職として不登校加配教員が配置される学校もあり、不登校生徒に対して担任教員や養護教員とともに対応することで、一定の成果が報告されている例がある。
勝山中学校においても、不登校生徒の急増以前から、生徒指導加配教員、情報加配教員、TT(2人の教員で授業を行うこと)加配教員とともに、「教育困難校」加配教員が配置されて、「不登校」加配という位置づけがなされてはいた。
しかし、不登校生徒の急激な増加が指摘された後にさらに不登校加配等の教員が増員されることはなく、勝山中学校としても加配教員が全部で四人ということを比較的好条件であると考え、増員要求等はしていなかった。
また、教育相談部において、毎週1回情報交換はなされていたが、不登校生徒に対する家庭訪問やいわゆる保健室登校の記録はなく、口頭での情報交換になっていたようであり、不登校生徒一人ひとりの状態を把握して対策するような体制まではとられていなかった。

4.進路選択・受験
(1)成績の低下
学は、前記の通り、「荒れ」の中で授業についていけなくなり、さらに不登校状態になったことから、成績も下がっていた。
1年生時の成績は5段階評価で2~4であるが、2年生時には1~3になっていた。小学校時代得意で自信を持っていた算数(数学)は、1年生の1学期には4だったものが、3年生の1学期には1になっている。
そして、3年生時の10月以降は全く出席していなかったため、3年生2学期の成績表にはすべての教科にわたって「評定」の欄に「不可能」とゴム印を押されていた。
それが、学の受け取った最後の成績表であった。
(2)進路指導
学は公立高校への進学を希望しており、夏休みには府立高校の体験入学に友人と一緒に行った。
担任教員によれば、この時点では絶対に公立高校に行けないという成績ではなかった。
しかし、2学期から不登校になって成績も低下したため公立高校進学は無理になってしまった。
不登校になってしまったあと、どのような進路があり得るのかという選択肢の提示やそもそも3年生で進学するのかという相談の機会は、学に対しても保護者に対してもなかった。
12月の三者懇談の際になって初めて担任教員は私立S高校をすすめたが、他の選択肢は示されなかった。
そのような状況で、結局、S高校を受験することに決まった。
S高校受験が学の希望に添っていたかどうかは不明であるが、少なくとも他に選択する余地のないままの選択ではあった。
なお、この12月の三者懇談の日は、10月以降学校に全く来なかった学が学校に来た唯一の日だった。
このことからも、学は不登校になってもなお高校への進学を希望していたことがわかる。
(3)受験準備
学は、翌年一月始めにS高校の下見に行き、受験用の写真も撮影して願書も提出した。
受験の前日には、明日の弁当の献立を母に注文し、受験会場までの行き方を書いた地図を用意していた。

なお、受験当日は、学一人で受験会場まで行く予定であった。

5.学の自殺と自殺後の学校の対応
(1)学の自殺
2000年(平成12年)2月4日、私立高校入学試験当日の早朝、学は自分の部屋の窓から外に向けて、ロープで首を吊って自ら命を絶った。
目覚まし時計は午前4時にセットされていた。
「自分に自信がなくこのままだと、ろくな大人になれないと思いました。これ以上、家族や先生にはめいわくがかけられないと思った」と書かれた遺書を残していた。
(2)学の自殺に関しての学校からの説明、指導
学の自殺当日、担任と校長が病院を訪れた。
その際、申立人によると、担任が涙ながらに弔いの言葉を述べたのに対し、校長からは「今回のことは受験期ということもあり『自殺』ということではなく、ただ死亡したとだけ全校に伝えたい。」との申し出があった。
学の死が同級生を含めた勝山中学校の生徒に学校から伝えられたのは、各クラスのホームルームだった。
元担任教員らの話と勝山中学校の回答によれば、どのクラスも同じように指導すべきであるという理由で学校が文書を用意し、各クラス担任教員がそれをホームルームで読み上げる形で指導した。
その文書は、学の死の報告といのちの大切さについて指導する内容であったということであるが、調査委員からの照会にかかわらず文書自体は開示はされなかった。
ただ、元同級生らからの聴き取りによれば、学校のホームルームにおける指導はあまり印象に残るものではなかったようである。
そして、「学校だより」には、「訃報 3年6組の木下学君が2月4日に亡くなられました。謹んで御冥福をお祈りいたします。」とのみ記載されていた。
(3)学の自殺に関する学校内での議論、調査
元担任教員らによると、学の自殺については職員会議で校長が話をしただけであり、個々の教員としてはともかく勝山中学校としては、学の自殺に関連しての教員間での話し合いや議論がどの程度行われたのかは不明である。
ただ、学の自殺を契機として、自殺直後は子どもたちのそばにいるようにとの校長の指示が教員にあったこと、これまでの学校の取組が形式に流れていなかったかという見直しを心掛けたこと、二者懇談の回数を年1回から年2回に増やしたこと、欠席状況の把握を月毎から週毎にして早期発見に努めるようにしたことなどの点は認められる。

他方、向日市教育委員会に対する照会への回答において、「勝山中学校による自殺原因の調査の結果、いじめの事実等はありませんでした。」という回答がなされている。
また、学の自殺と学校教育との関係を尋ねた質問に対して、向日市教育委員会は、「いじめ等、学校に起因する直接的な原因はなかった」とのみ回答している。

なお、向日市教育委員会の回答によれば、学の自殺を契機として、勝山中学校では「より一層いのちの大切さについての指導に取り組み」、「よりきめ細やかな教育相談活動に努めている」、向日市教育委員会としても「他の小中学校に対して教育相談のより一層の充実を図るように指示をした」とある。

「第4:判断」
1.被侵害利益
(1)憲法第26条1項は、「教育を受ける権利」を保障しているが、これにより子どもの学習権が保障されているものと解されている。
そして、最高裁も、「この規定の背後には、国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、自ら学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在している」と敷衍している。(最大判昭和51年5月21日刑集30巻5号615頁。旭川学テ事件)
子どもは教育を受ける客体ではなく、教育における主体、学習権の享有する主体であることを同判例は明らかにしている。
(2)また、経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(国際人権規約A規約)13条は、すべての者について教育についての権利が保障されているとし、同規約を受けた「子どもの権利条約28条e」は、「締約国は、教育についての児童の権利を認めるものとし、この権利を漸進的にかつ機会の平等を基礎として達成するため、特に」「定期的な登校・・・を奨励するための措置をとる。」と定めている。
ここにいう「定期的な登校・・・を奨励するための措置」とは「不登校」に対する措置を含むと解釈されている。(『逐条解説児童の権利条約』波多野里望、有斐閣。204頁~)
これら条約に基づいて、子ども、特に「不登校」の子どもは、「不登校」の原因が学校にある場合は、学校に対し、それをすみやかに除去することを請求する権利を有しているし、反対にその原因がもっぱら子ども自身にあるときは、学校に対し、登校を強制したりするのではなく、学校以外の学習・相談施設に通うことを認めるなどの措置をとることを請求する権利を有し、反面、学校は子どもの上記権利を満たすだけの環境を整備する義務を負っているということができる。
(3)しかしながら、現在、日本の教育現場においては、このような子どもの権利が確保されているとはいえない。
むしろ、日本では過度に競争的かつストレスの多い教育が実施されることにより、子どもが不登校さらには自殺にすら至る危険性があることが国際的に指摘され、問題視されている。
すなわち、国際連合「経済的、社会的及び文化的権利に関する委員会」は、日本政府に対し、「あらゆる段階の教育がしばしば過度に競争的かつストレスの多いものになっていること、その結果、不登校、病気、更には生徒の自殺すら発生していることを懸念する」との意見を表明している。
(経済的、社会的及び文化的権利に関する委員会、2001年(平成13年)8月13日~31日採択、規約第16条及び第17条に基づき締約国によって提出された報告書の審査の最終見解31)
教育制度の総合的見直しを行うよう強く勧告しているのである。(同最終見解58)
この見直しにおいては、特に「あらゆる段階の教育がしばしば過度に競争的かつストレスの多いものになっていること、その結果、不登校、病気、更には生徒の自殺すら発生していることに、特に焦点が当てられるべきである。」とされている。(同最終見解58)
さらには、国際連合「子どもの権利に関する委員会」は、日本政府に対して、「不登校の生徒が膨大(significant)であることを懸念する」との意見が表明され(子どもの権利に関する委員会、1998年(平成10年)6月採択、条約第44条に基づいて提出された締約国報告の審査、子どもの権利に関する委員会の最終所見:日本22)、日本政府に対し、「過度なストレスおよび不登校を防止し、かつ、それと闘うための適切な措置をとるべきことを貴締約国に勧告する」(同最終所見43)とし、不登校生徒に対する対策を勧告している。
(4)以上のような教育に関する人権基準を踏まえて、我が国における教育関係者の間においては、以下のことが認識されるべきである。
(ア)すべての子どもは学習権を有しており、学校教育の場においては、教育の客体ではなく主体である。
学校及び教育委員会は、学習権を保障するため、必要な物質的・精神的条件を整備し、子どもの学習意欲を充足するに必要な教育環境を確保する義務を負っている。
(イ)「不登校」の子どもたちが増加していることは国際的にも強い懸念が表明されている。
子どもが学習意欲があるにもかかわらず登校できない状況に陥っているとすれば、そういう事態を招き、かつ放置すること自体が、上記義務を怠り、学校及び教育委員会が、これらの子どもに対して学習権を保障できなかったことになる。
したがって、「不登校」に陥った生徒を放置するような対応は許されず、「不登校」生徒の学習権を保障するために特別の配慮をするべきである。
以上のとおり、学校及び教育委員会は、「不登校」生徒を含む一人ひとりの子どもたちに対し、あらゆる方法を通じて、各個人の学習権を保障するため、必要な物質的・精神的条件を整備し、教育環境を確保しなければならないのである。
これを前提に本件を検討する。

「2.評価」
(1)「荒れ」の状況に対する勝山中学校の対応について
(ア)学校の対応
前記の認定事実のとおり、学が在籍していた当時の勝山中学校は、2年生時をピークに、学年全体が「荒れ」の状況にあった。
そして、この「荒れ」の状況は、科目によっては授業の成立を阻害し、学ら生徒においても、授業への関心が薄れたり、あるいは授業ノートがまったく取れない状況を余儀なくされていた。
これに対して、勝山中学校では、担任教員や生徒指導教員らが「荒れ」の事態の沈静化に努力していたが、その対応が個々の教員によって行われていたため、効果的な対応をとることができなかった。
また、学校全体としては、「学校公開」等の試みを行ってはいるが、学校を公開をした後に、保護者との間で事態への対応方法について協議をするわけでもなく、ただ、学校を公開して保護者に校内の現状を見てもらうだけで終わっており、「荒れ」の状況に対して学校内外で認識を共通にして一致協力しながら対処するという取組みはできていなかった。
このように、「荒れ」に対して学校全体が適切な対応を行ったとはおよそいえない状況にあった。
(イ)「荒れ」と学校の権利侵害
授業が成り立たず、生徒の授業への関心が薄れたり、ノートが取れないような事態は、仮に子どもが学習意欲を有していたとしても、そもそも学習する環境自体が破壊されている状況である。学を含めた勝山中学校の生徒らは、このような過酷な「荒れ」の中にさらされていたのであり、このような環境の中で、学を含めた一人ひとりの生徒の学習権は恒常的に侵害されていたというべきものである。
このような「荒れ」の事態は、必ずしも学校が自ら作り出したものではなく、現代社会の病理現象とそれに対応し切れていない国家レベルの教育政策の問題として取り組まなければ、根本的に防止することは困難なものである。
しかし、上記の通り、教育関係者は、子どもの学習意欲を充足するだけの教育環境を整備する義務を負うのであるから、勝山中学校はこのような状況を回避する義務があり、仮に万が一、このような「荒れ」の事態が生じた場合は、あらゆる手段を用いて事態を収束させる義務を負っていたのである。
勝山中学校の「荒れ」に対し、勝山中学校ないしは個々の教員が一定の努力をしたこと、対教師暴力に対処しながら、情熱を持って教育指導にあたった教員がいたことは元担任教員らの証言からうかがうことができる。
しかし、これらの努力を勘案しても、上記教育関係者に求められる教育環境を確保する義務が十分に履行されたとみることはできない。
(2)学の不登校に対する対応について
(ア)はじめに
不登校生徒に対する当時の勝山中学校の対応の当否を検討するに当たっては、不登校事象に対して先駆的取り組みを行っている、他の学校の対応方法を調査することが不可欠であると考えられた。
そこで、NHKの特集番組のなかで紹介されたこともある、宇治市立東宇治中学校の元不登校加配教員から、事情を聴取することにした。
(イ)宇治市立東宇治中学校の元不登校加配教員からの聴取事項
(a)宇治市全体の取組
宇治市は、1990年(平成2年)から2年間、文部省の「学校不適応対策総合推進事業」の委嘱を受けて、学校・家庭・関係機関などが連携して対策委員会を設置し、実践的な研究課題や事業を実施した。
さらに、同事業が終了した後、1992(平成4)年には、宇治市の単独事業として、宇治市内のすべての小中学校から選任された教員らによって構成される、宇治市不登校問題対策委員会が設置された。
そして、同委員会を中心に、リフレッシュ教育相談(臨床心理学の専門家が月1回教職員等のスーパービジョンを行う)、事例研究セミナー(年3回程度、臨床心理学の専門家による公開スーパービジョン形式の事例研究)、メンタルフレンド派遣事業(週1回1時間程度、不登校児童生徒に対して学生ボランティアが家庭訪問)、心の教室相談員活用調査研究(臨床心理学専攻の大学院生を中心に市内9中学校に19名を配置)、適応指導教室「Ujiふれあい教室」の設置などの事業を展開してきた。
(b)東宇治中学校の取組み
東宇治中学校では、1993年(平成5年)から専任の不登校加配教員が置かれた。
(「教育困難校」加配を「不登校」加配と位置付けている)
そして、不登校加配教員が教育相談部会の部長になって、不登校生徒に対する学校全体の対応、体制を確立し、不登校生徒及び不登校傾向の生徒の早期掌握と検討を学校全体として進めていった。
また、1997年(平成9年)からは、文部省スクールカウンセラー活用推進事業の指定を受けて、スクールカウンセラー2名を配置するようになった。
同校のスクールカウンセラーは、主として、教職員全体のカウンセリングマインドと指導力量を向上させるという位置づけで導入され、教職員を対象とする研修会が数多く実施された。
その結果、教職員全体で、非行(反社会)生徒及び不登校(非社会)生徒とも、生徒の心に寄り添う教職員の姿勢が大事である、という共通認識を持つことができたという。
(c)東宇治中学校における不登校生徒への対応について
東宇治中学校では、生徒の欠席が月3回以上あると、クラス担任教員から学年教育相談担当を通じて、教育相談部に連絡が毎月入るようになっていた。
そして、不登校生徒への対応記録が作成され、そこには、家庭訪問や面談、電話連絡等の日付や援助の状況が記入され、ひとりひとりの不登校生徒への対応に活用されていた。
また、家庭訪問については、担任教員と連携をしながら、週1回の割合で行っていた。(なお、全欠状態の生徒に対しては月1回の割合)家庭訪問は、担任教員が行く場合もあるが、担任教員が家庭訪問をすることが生徒本人への登校圧力になるようであれば、不登校加配教員か養護教員が行くようになっていた。
家庭訪問をした際、生徒本人と会えないときには、配布物を渡すなどしながら、子どもの不登校で悩んでいる保護者の話を聞いたりして受け容れるように接していた。そうして、親子が学校に来なくても学校とのつながりを感じることができるよう配慮していた。
学校内には、生徒相談用に相談室と和室の2部屋が準備され、和室については、入口を校舎の外からも入室できるようにしていた。
また、和室では絶対に生徒指導を行わないことを徹底することによって、子どもが受け容れられる場としていた。
さらに、不登校生徒が、適応指導教室やフリースクールに通所し、あるいは、生徒本人が外部のカウンセリングを受け、または放課後登校をした場合には、出席簿の備考欄にその旨を記入したうえで、通知票及び高校入試の内申書には出席扱いとすることが、教職員全員で確認され徹底されていた。
なお、東宇治中学校では、一般の生徒と保護者向けの、いわゆる三者懇談会とは別の日程で、不登校生徒と保護者、不登校加配教員と学校長が懇談をする機会を作っていた。
さらに、それとは別に、不登校生徒を抱える保護者自身が「親の会」を毎年組織し、その会合の場に不登校加配教員が立ち会うことで、学校内の施設を利用しながら保護者同士が情報交換をし孤立することなく交流を深める機会が作られていた。
(ウ)勝山中学校の対応
勝山中学校では、スクールカウンセラーと不登校加配教員各一人は配置されていたものの、不登校生徒の急増に対して、向日市教育委員会に配置を要請する意見の申出はなされていなかった。(地方教育行政の組織及び運営に関する法律第39条)
また、向日市には適応指導教室は配置されていたものの、勝山中学校におけるその適切な情報提供や活用はなされていなかった。
さらに、学校と保護者との連携もほとんどとられていなかった。勝山中学校では、不登校生徒の急増以降に不登校対策に的を絞った研修や一人ひとりの不登校生徒を学校全体として把握して組織的に対応するような体制をとっていたことを窺わせる資料はない。
学に対しても、具体的に行われていたのは、担任教員の家庭訪問だけである。
このような勝山中学校の不登校生徒への対応は、担任任せと評価せざるを得ない。
そして、一人の教職員の抱える仕事の量及び多忙さからすれば担任教員一人だけでできることには限界があり、しかも「荒れ」への対応に追われる中で、増加する不登校生徒に対して個人的に対処することを求めることはできない。
個人の努力に負わせるのではなく、学校全体としての組織的な対応や段階的な対応を講じるべきであった。
特に、学校の荒れへの対応により教員が忙殺されていた状況が窺われることからすれば、加配教員のさらなる増員が必要だったと思われる。
この点については、勝山中学校の1999年度(平成11年度)生徒指導総括において組織的対応と段階的対応の展開ができなかったとの反省がされている。
勝山中学校としてもこの対応の不備は十分認識していたということができる。
上記のとおり、学校には、不登校生徒を含む一人ひとりの子どもたちに対し、必要な物質的・精神的条件を整備し、教育環境を確保する義務がある。
不登校状態の学に対して、担任教員一人に任せたままで学校としての組織的な取り組みをしてこなかったことは、まさに不登校生徒を放置したことにあたる。
学をこのような環境のもとに長期間置いたまま高校入試を迎えさせたことは、まさしく、学が有する学習権を侵害したというべきである。
(エ)向日市教育委員会の対応
向日市教育委員会は、勝山中学校における不登校生徒の増加を認識していたが、同委員会がとった対応は、勝山中学校に対し、不登校生徒の急激な増加の原因を分析することとこれを解消するための取り組みを「お願い」するというにとどまっていた。
しかし、市町村立学校の教職員の任命権は都道府県教育委員会にあり(同法第37条第1項)、市町村教育委員会はその都道府県教育委員会に任免その他の進退について内申を行うとされている。(同法第38条)
また、学校の組織編成、教育課程、学習指導、生徒指導及び職業指導に関することは教育委員会の職務権限である。(同法第23条第5号)
よって、向日市教育委員会は、不登校加配教員の配置を京都府教育委員会に内申し、勝山中学校に対して、不登校解消の取り組みを支えるための人的物的援助を行うこともできたのに、向日市教育委員会はそのような対応をしていない。
(オ)京都府教育委員会(乙訓教育局)の対応
調査委員の照会に対して、京都府教育委員会乙訓教育局からは、「市立学校の教育内容に関する事務は当該教育委員会の所管であるから回答する立場にない」旨電話で回答があった。
しかし、地方教育行政の組織及び運営に関する法律第48条1項には、都道府県委員会は市町村に対し、教育に関する事務の適正な処理を図るため、必要な指導、助言又は援助を行うことができるとされているのであり、「所管」しなくとも、「指導、助言又は援助」の権限を持っていることは明らかである。
そこで、さらに京都府教育委員会に対して照会したところ、学在籍当時の勝山中学校の不登校生徒の人数等は文部省調査で把握していたこと、勝山中学校にも加配教員を四人配置していたこと、勝山中学校の不登校生徒の増加や学の自殺に対しては日常的に不登校の解消、人間の尊厳という観点に立った生徒指導の充実などを指示しており、あくまで向日市教育委員会の判断を尊重している旨の回答があった。
ただし、勝山中学校の不登校生徒の増加という事態に対する具体的な対応を検討した様子はない。
しかし、前記の通り、市町村立学校の教職員の任命権は都道府県教育委員会にある。(同法第37条第1項)
よって、京都府教育委員会は、勝山中学校の不登校生徒の増加に対して、速やかに不登校加配教員の配置等のさらなる人的手当を行うこともできたのに、そのような対応をした事実は認められない。
(3)進路指導に対する学校の対応
不登校になっていた学(3年生在籍)に対する進路指導としては、12月の三者懇談の際になって初めて私立高校1校の受験を勧められたのみであり、他に選択肢は示されなかった。学は進学を希望していたのであるが、通信制、単位制も含めていくつかの選択肢はあったはずである。
もっと早い時期から、進路問題について、受験をするのかどうかも含めて学に対しても保護者に対しても、相談ないし助言の機会を作るべきであった。過度なプレッシャーを与えないようにという担任教員の配慮は理解できる。
しかし、学校としては、他の教員と連携・役割分担をして組織的に体制をとってきめ細かなケアと進路指導を行うべきであった。
以上のような、不登校状態であっても進学を希望していた学に対する勝山中学校の対応は、不適切な対応であったといえる。
(4)自殺後の対応
生徒が自殺したという事実に対して、いじめ等がなかったとの一事をもって学校の教育環境に何の問題もなかったということは誤りである。
少なくとも、受験日における生徒の自殺という事実を真摯に受け止めるならば、事実関係を明らかにし、「いのちの大切さ」一般ではなく、どうして防ぐことができなかったのか、一人ひとりに何ができたのかを自ら問いかけることはできたはずであるし、そうすることが教育機関たるものの義務である。
しかし、勝山中学校でも、向日市教育委員会でも、学の自殺について、いじめの有無にとらわれ、教員個人は別として、学校の教育環境に問題がなかったのかという真摯な検討がなされた気配はない。
また、向日市教育委員会の「(勝山中学校では)木下君の自殺後は、より一層命の大切さについての指導に取り組んでいるところであります。」という回答は抽象的であり、何を問題点としてとらえているのか、それに対する改善策として何を行うのかは全く見えてこない。
当時の勝山中学校の「荒れ」や異常に多かった不登校についての問題意識は薄く、具体的対策を検討していたとは思われない。
現教頭(当時教務主任)は「人の死を詮索するのもどうかと考える。」と調査委員に対して発言したが、学に対する学校の対応が適切であったかどうかという教育機関としての反省は詮索とは異なる。
むしろ、何をすべきだったのか、何をなしえたのかを考えることこそが教育的営みとして当然必要だったはずである。
このように、自殺後の勝山中学校の対応は、教育機関として不適切なものであったというべきである。

「第5:結論」
1.勝山中学校においては、1998年度(平成十年度)は対教師暴力、生徒間暴力、器物損壊件数とも激増し、同年度二学期には病休する教員も増加し、授業も成立しないクラスも現れ、「荒れ」の状態にあった。
そして、勝山中学校での不登校生徒数は1998年度(平成10年度)で34人、1999年度(平成11年度)で37人にのぼり、向日市内の他校と比しても突出していた。

2.前記認定事実のとおり、学は1998年度(平成10年度)(2年生)2学期から遅刻・不登校がちになっていくが、これは勝山中学校の上記「荒れ」の時期と符合する。
1999年度(平成11年度)(3年生)4、5月には再び登校する兆しが見えたものの、6月からは、欠席が目立ちはじめ、同年度2学期からは完全不登校状態となった。
そして、同年度2学期の成績表には「評価不可能」と記載された。学校から進学先として唯一示された私立高校を受験することになり、2000年(平成12年)2月4日の試験日を迎えた。
そして、学はこの試験日早朝自ら命を絶ったのである。

3.学が、試験日当日に置き残した遺書には、「自分に自信がなくこのままだと、ろくな大人になれないと思いました。これ以上家族や先生にめいわくはかけられないと思った。」と書かれていた。
これは学が勝山中学校での学校生活から落ちこぼれ、不登校に陥り「評価不可能」の成績表を受けて、高校入試日を迎えたことの自信喪失を物語るものでないだろうか。勝山中学校での教育環境及び不登校状態による自信喪失が少なくとも自殺の一因としてあったと推測することができる。
当会は、勝山中学校における「荒れが不登校を招いた」「学の自殺は不登校の結果としての自殺である」と一義的に断定するものではない。
しかし、「いじめがなかったから学校に責任がない」と学校の責任を一蹴した勝山中学校及び向日市教育委員会の態度は適切でないと考える。

4.勝山中学校の「荒れ」や不登校によって学校教育を受けられない状態は、子どもの学習権侵害の状態であった。
そして、不登校になった学に対して、勝山中学校においては、東宇治中学校の試みに見られるような不登校加配教員を中心とした教員の連携による家庭訪問、適応指導教室の活用など、学校全体としての取り組みは見られず、学と学校とのつながりを確保するような教育環境はなかった。
このような状態は不登校になった学を放置したのに等しいのであり、学を含む不登校生徒の学習権に対する侵害があったと考える。

5.そして、当時の勝山中学校の教育現場を知り得た向日市教育委員会及び京都府教育委員会としては、不登校加配等の加配教員の配置など、不登校生徒に対する対応を改善させることが可能であった。
しかしながら、京都府教育委員会は向日市教育委員会に一般的な指示をするのみで基本的には向日市教育委員会の判断を尊重するにとどまっていた。
また、向日市教育委員会は不登校生徒急増の原因の分析及び解消のための取り組みを勝山中学校に「お願い」するにとどまり、それ以上の対応をしなかった。

6.よって、当会は、学が不登校状態になりながら勝山中学校から適切な対応がとられることなく放置された事態を、勝山中学校による学の学習権侵害であると判断し、再び学と同様の状況に子どもが陥ることのないよう十分配慮されることを期待し、勝山中学校、向日市教育委員会及び京都府教育委員会に対し、要望の趣旨記載のとおり要望する。
以上